2019年6月20日木曜日

国吉真次と子孫

国吉真次と子孫                                                                   

現代は通信の発達により文通や会話がたやすくなった。私の長女のぞみがいとこにあたる孫たちと文通をするようになった。みんなが一堂に集まって、祖父母をしのび語り合えたらどんなに楽しいかと実行に移した。ちょうど休暇を利用して四月二十日土曜に決めた。ちょうど.カンバラの町に素晴らしいホテルができたのを幸いに宣伝を兼ねて集まることにした。
真次夫婦には男子二人と女子四人がおる現在元気でいるのは三女千代」だけとなった、孫は二十八人おるけど世界にまたがり日本とスリランカにも住んでいるその日に集まったのは総計四十五人となった、
お互いに語りあいその孫の中には初めてであうのもおった。
真次と妻のときは顔立ちが整い孫たちも皆日本人の中でも好男子や美女たちのようだ。夕食後にお互い自慢のカラオケに熱中してお互い持ち寄った古い写真ぼくが日本生まれで話が通じたので、真次夫婦の歩いた道を記述することにし。た。沖縄の南部の上田原部落の殆んど国吉家で成り立っていた、なかでも坂迎。
長男が十五歳で亡くなり独身で次男が長男になり三男の真次が次男に収まった真次は少学年卒業して父母のもとで働いていた十八歳になると、父母は結婚の相手を隣村の同じ国吉一族から約束した。名前はときで早速結婚することまで決めた。両親は働き手が欲しかった。両親は働き者で村でも評判だった、結婚後年月が立ち、三人の子供に恵まれた、育児には不自由をきたし独立を願った.ちょうどその頃同じ村からブラジルに移民した国吉一族の家族がいた、引受人になることを承諾してくれた。長女と次女はてつだえるので、父母に。乳飲み子の長男だけを共にした、蓄えた資金をいだいて出発できた。長い船旅の後
ブラジルにつくことができた、所はパラナ州ノカンバラ市のタクアラ植民地で沖縄人が多かった、牛さんから与えられた家は」あばら家で、夜になると星も見えた、その夜は故郷の二人の子が恋しくトキは涙をなした、真次はお金が儲かったら帰るからしばらく辛抱するのだと慰めた
二年の契約を終えて牛さんから話が持ち出された。近くにある土地が売りにある条件は良い、できれば買いなさいと進めた日本からたくわえと不測の分は
貸してあげる。との自分の親のような条件でした、さっそく買い求めて移った時には次男が生まれていた、三人の子を抱え、教育も考えねばならず幸に、植民地には日本学校とブラジル学校があって、真次が少学年で終えたのをせめて子供たちに十分な教育をさせたいと願っていた。百姓は自分までで子孫には出来だけの教育を与えたいとの思いでした。丁度そのころ第二次世界大戦となり、危険のある中で長女と従妹のかまど一緒にやってきた、家族が増えるので土地離れたところを増やすのに迫られた、すこし離れたところに良い土地を見つけて今供の学校には不便だけれど、致し方なかった、日本語学校は中止されていたけど、土地に入った歩合策の家族のなかに、長谷川家の娘が日本語を教えてくれた。
千代は今でも漢字を覚えている。さて文子が結婚して真次家は独身ばかりが残った、将来の結婚を考えると日本人植民地に移住せずにはいられなかった。肥沃の土地でも子孫の繁栄を思うと致し方なかった。チジュコプㇾットに 買い求めた、植民地には日本語学校もあり四人の子も結婚して真次夫婦だけとなった、結婚五十年を迎え子や孫で祝い長男、次男が歯医者を卒業して開業したので長男に身を寄せることにした。長い人生の中で戦後初めて日本を訪れて兄弟にあい、戦後の困難の時救援物資を送ったことを親戚一同感謝していたのも良き思い出となった。この物語は生前に自分人生を書き留めたいと、婿の僕に語った子があり改めて記述したのです、国吉真一

2018年6月27日水曜日

戦後移住者の植民地


戦後移住者の植民地
悲惨な第二次大戦を生き残り戦後の貧しい生活に苦しんだ、沖縄の人々がブラジル大陸に夢を抱いて1960年台に、パラナ州のカンバラ市に旧移住者を頼って移住してきた、初めは旧移住者の歩合作として働き、植民地は二世や若い戦後移住者で賑わい、日本とブラジルの文化の交流が行われて日本語の先生も戦後移住者を雇い、子供達にとってもよい機会でした、失われた戦争時代の空白が蘇ってきた、戦後移住者にも自分の土地を持ちたいとの機運が高まり、400キロも離れた奥地クルゼイロの手前に約300アルヶールノ原始林を購入した、戦後移住者が十五家族旧移住者八家族で植民地を造り上げた、第一に入植したのが新城安義家族と仲田昇家族で先発隊として六人の男子だけで、汽車に乗り食料と伐採道具と衣類を持ってマリンガ市の終着駅で下りた、その日はホテルに泊り翌日、トラックの荷物の上に載せてもらい夕方現地にたどり着いた、まず仮小屋で一夜を明かし翌日から境界線に沿って道を明けることから始めた、人類未踏の原始林、太古に眠る山に、開拓の斧を入れる事になぜかしら六人は旧移民同様な経験を味わう事に意義を見出した、半キロくらいの所で谷に出会い橋を掛けて上の方で家を建てることにして材木が運ばれ、二家族の住める家を建てた、一容準備が出来たので二人を残して残りは帰ってきた、二人はその後も山きり人を使って土地の半分を開拓して家族を呼び寄せた、その後三年後に殆どが移住してきた、山焼き跡にタピオカ、やサツマイモ、トモロコシを植え、家畜を養う準備をし、陸米も蒔き、食料の準備を整えた、地形の低い方に綿を植え上のほうにコーヒを植えて、三年後の収穫を夢見ていた、幸いにも5キロ離れた所に古い移民が見事なコーヒーを栽培しており教えてもらう事が多かった、移住者の中から初めて犠牲者が出た、切り倒した木の下敷きになり死亡したのです、一家の働き手の主人を失い家族は途方にくれたそれでも皆に励まされ15歳を頭に開拓に挑んだ、初めてのコヒー収穫に大きな望みを託した時に、霜が降りて絶望し、植民地から出て行く家族も出始めた、とかく沖縄県人は年も若く良く働いて、古い移民の評判になった、家族総出で古い移住者のコーヒー、を収穫してブラジル人にも負けない働き方をした資金もなくなり古い移民同様メリケン袋を買って仕事着などこしらえて着た、労働靴を買うかねもなく裸足であるいた年とともに明るいみとうしが見えてきた、6,7年にはブラジル銀行から融資を受ける事も知り、トラックなども持つようになっていた町からコーヒーの殻を運び畑にいれたコーヒーは見事に実った、、子供も生まれ植民地に多くの二世が誕生した、日本で小学生だった子供は5キロ離れた小学校に入学した、中学生だった子は開拓に参加した、それでも家庭では文芸春秋、中央公論や現代、諸君などをとり、知識欲を満たしていた、中学生だった子達も大人向きの本を読み知識欲を満たしていった、生活が楽になると、国吉兄弟は谷底にダムを造り発電機を吸えた新城安義は高大に井戸を掘り住家までパイプを通して水を引きコーヒーの苗や、野菜を栽培し食べきれぬほど出来た、、子供の教育の事も考えて母と子供が町で暮らすようになった、植民地を出て行った家族の土地も買いそれでも止まらず、パラグアイにも四家族で土地を買い牧畜を始めていた、ところがパラガィは役人の汚職に嫌気が指し、子供の結婚相手が少ないことにきずき、売りはらってサンパウロへ移転した。植民地で生まれた子達に勉学の機会を与えた、ある二世は弁護士にある二世は医者に歯医者に大学教師に商業にあらゆる分野で活躍する事が出来た、中にはミーナスにわたり大コーヒ農園を経営するのもでた、、変わっているのは21歳で日本に帰り勉強をしなおし昼は働き夜学で工業高校を卒業して設計事務所を開き活躍しているのもおります、植民地開拓は努力心、人間の大切な事を教えたようです、新城さんはいく年月後懐かしさのあまり植民地を訪ねて以前の姿は跡形も無く牧草に変わり、戦後移住者が日本から持ってきたエネルギーを注ぎ込んだ植民地の跡形はどこにも無く感無量だと語った、日本政府の力で開いた植民地は幾つもあります、事業団や国の融資を受け国が面倒を見てくれています、戦後移住者のこの植民地だけは自分の力で政府の力を借りず開拓した植民地、新聞にも載らず消えた植民地があったことを記し、その名は皇栄植民地と名ずけたようでうす、

国吉真一


2018年3月18日日曜日

祖父母の移民百年祭


三月三十一日は国吉牛ナべ祖父母の移民百年祭に孫の一番年上の私が提案したら、従姉妹の孫達が賛成して、インタ―ネットを通じて話し合い殆どが参加する事になった
l  総勢百四十名の子孫が夕食を共にして演芸会をもようすことになった。従姉妹や従兄弟の繋がりは沖縄人の持つ仁徳で、準備も予想以上のが出来た、祖父母の移民初期の歴史を記さねばと思うけど、祖父母が長男の父と妹を日本に残して移民した私は、長男が日本で結婚してその長男で、日本生まれで移住先の生活は文献によって知るのみである、
国吉牛とナベは沖縄南部の東風平村字上田原となっている
この区域は国吉家の子孫で成り立っている、祖父牛さんは国吉家の子孫九代に当たり、屋号は当銘地で二男に生まれた村でも多くの土地を持ち貧しい家ではなかった、長男の夫婦が
ハワイへ出稼ぎに行ったので二男牛祖父がト‐メジ家をナベと結婚して守っていた、いくら働いても長男の松金の土地なので外国へ出稼ぎの機会を待っていた。
真保さんが参加した、真保さんは国吉本家「モート」屋の跡取りで、其の頃戦争に召集されるのを逃れる為に母が無理に家族構成に賛加するよう勧めたと伝えられている、真保さんは師範学校卒業間際で義務的に先生を務めるのが嫌で海外行きに賛成したようだ。歴史を顧みて思うに祖父の牛さんは無学で甥の真保さんは師範中退の家族構成で二人の移民の歩んだ歴史は波乱に富んでいて、多くの移民の物語も似たりよったりだ、
さて牛さんがなぜ無学だったか、一番には土地面積が大きく
年賦の雇人も使っていたので,学校に行く暇を働かせたとも考えられる。二つめは明治になっても侍「ユカチュ」と百姓の差別が残って居て、侍は髪を「カンプ」に結っていたので
学校では差別なく皆断髪するのが習わしだった、侍の誇りを
捨てがたく学校行かなかったようだ。中には率先して日本語学校へ行ったのもいて。琉球の初期の官職に就いたのもいる
日本の明治の初期に歴史は似ている、何時の時代にも先見
ある人は繁栄しているのが歴史は語るのです。
村では土地が多くても沖縄は日本と比較してサンゴ礁のやせ土地で日照りでもあるとお互いに助けあって命を繋いだようで、上田原は国吉一族の結束は強く、祖父牛さんが移民の先頭になった道を開いたとも言われている、祖父の話では唯モジアナだけでブラジル沖縄移民史の名簿には。ヴィラ,ユスチナーとある、多分ファゼンダと駅名だと考える、祖父は体格ががっちりした持ち主で、体格が大きくブラシル人からク二ヨソンと呼ばれて、人の倍も働いたようで契約を全うして耕地をでたようです。その間に次女のツルさんが生まれた。
アバレ―役所に出生届を出しているで、其の辺の耕地にいたのでないかと察する、三女のカメ子さんははパラナ州のジャカレジンヨの耕地生まれで、コスタジュンヨに契約していた、現在はマリンガ製糖工場の一部になっているコスタジュンヨ耕地には、沖縄移民が五六家族いたようで、その後カンバラ市のアグアヴィエイラに初めて土地を購入して地主となった、その後、土地を拡大しようと、タクアラに二十アルケールを購入して、自分の土地に日本学校を設立した、
沖縄移民も歩合作で受け入れた、日本移民の独身者も受け入れて耕作した、二男の真完が生まれて、サンパウロに中学に進学して柔道の稽古で体を負傷して命を奪われた。長男の私の父、真亀も海軍任務中事故で命を損なっている、その下に清子と真吉がおって七人の子に恵まれて、現在は孫達の時代になっている、移民の中では順調に土地を広めて国吉の一族国吉真次夫婦を移民で、引き取って世話をして二年後独立させている、カンバラ市には国吉一族が移民して土地を買い求めて独立したのも、牛さんの率先のたまものです、沖縄の一族の団結心を外国の移住先まで持ち込んだのです、其の後を継いで国吉真次さんがブラジルの豊かな国の暮らし安さに戦後一族を呼び寄せてカンバラの国吉家は膨らんだ
私は祖父が無学で事業を広めて来たのに計算は頭で暗記していたようで、若し、無学でなく学校も出て字が読めたら
ブラジルで十分活躍したのではないかと思うのです。
終戦ごタクアラ‐の土地を売った。低地でコーヒーに適せず、チジュコに原始林を購入して開拓した、そこにも学校を建設した、思えば、自分の無学を意識して、子孫に学問の大事を理解していたように思うのです、その反対に甥の真保さんは学問故にブラシルを点々としているのです。学生だった故に労働仕事は苦手でまず言葉を覚えるのに、熱心で働かずに家でポルトガル語を勉強したようだ、叔父の牛さんが人一倍働くので受け持ち分に支障はないけど、祖母が文句だらだらに、嫌気がしてサンパウロ市へ出ていった、その時代サンパウロの街は移民夜逃げであふれていた、幸い真保さんは言葉憶えが早いので、すぐにバールの召使いにやとわれた。同じく夜逃げした大和撫子の女性と結婚した、しかし沖縄のモート屋、本家には知らせなかった、跡取り息子長男故に許される仲ではなかったからです、真保さんは学問ゆえに労働は嫌った、
いつも大儲けしようと借地農で仲買より前倒しでお金かりていたけど上手くいかず、家族をつれてカンバラの牛叔父にみを寄せて生活した。叔父の保証で土地を求めた、移民は労働仕事で稼ぐために外国まで移民しても、農業仕事以外にあの頃は仕事がなかった。真保さんの孫も牛さんの孫も高等な学問を授かり現在あらゆる分野で活躍している。
国吉真一

2018年2月10日土曜日


寿命
世界的に人間の寿命が延びている。有り難い事ですけど。社会の負担が増えるのは当然です。結婚した頃二十代で六十代まで働き定年「アポゼント」するまで四十年長い年月と思っていた。
私が糖尿病を患っているのを知ったのが四十代で後二十年は働かねば成らないので体を維持せねばと思っていた、六十代になったら
アポゼントしても良いと思った.ところが人間の平均寿命も七十五歳になっていた。私達の寿命は家系にもより、遺伝的な宿命もあるようだ、自分の家系をみると、母方の姉妹は四人とも八十八歳まで長生きした、父方は祖父が癌の病気故六十で他界した、自分がアポゼンタしたら、誰かが養ってくれている結果で社会は成り立っていると思うようになった。
結局自分で決めた老後をどう生きるか変更せねば。社会の負担が働く人にのしかかると僕は思っている。亦働く事が寿命も延びて、生き甲斐も生まれる相互扶助の役割を果たしていると思う、
現在自分は八十代で周りの知人は殆ど他界している。体格の良い病気を持たない人でも、もう此の世にいないから神が与えた寿命のように思われる。それとも体が丈夫でなく、医者通いするのが健康維持しているともいえる。現在では百歳まで生きるのも不可能でなないようだ。
百歳まで生きるとしたら、僕が八十代でまだ二十年生きねば成らなくなる、僕は大腸を手術して十センチほど短い、大腸は体の重要な働きで、体に必要な養分を作り出す機能を果たしている、アレルギ―を抑えたり、糖尿病を抑えたり、体の水分を維持したり、体の需要な役割のようだ、糖尿病が腎臓にタンパク質が消化されず負担をかけているのも専門医者が説明してくれた
体の健康についてはテレビや本などからある程度、理解できた
体の健康は維持できたとしても、老人に付きまとうボケはどのように防ぐか考えてみた、記憶力を増す意味で仕事上、支出収入を記憶して無駄を省く、頭を働かせる。本を読んだりして想像の世界を
広げる、近頃想像したのが次のようだ
私達は人魚の話を本などでみている、しかも確実に上体は女性である、実際に実物はありえない話だ、生物の世界はオスとメスからできている、メスの人魚がおればオスの人魚も当然実在しなければ生命はなりたたない。頭に或る記憶では、この世界に生命が現れたのが、暖かい海からだと言われている、先ず単一生命が発生して進化を遂げてオスとメスの機能をもった生物が生存して植物と動物に進化したと考えられる
その中間の生物もいまだい生存している、どうしてメスの人魚がうまれたのか想像すりと、男性が創り上げたと考える、現在だと作者の著作権などに触れたけど、ただ男性は波が打ち寄せる海辺に或る石を見て想像したのではないかと僕も想像する。人間も進化を遂げた生物でたまに進化の逆もドリして、自分がオスかメスはっきりせずメスを入れて生まれ変わったり、同性結婚したり、するのが出てくる
遺伝と進化を考えた時;現在の若い世代が四五歳のときからパソコンなどから学ぶ豊富な知識が遺伝に繋がると、人間を取り巻く環境は変化している、遺伝にも変化が現れ、優れた才能を持った人物が現れると想像する。現に将棋の世界では天才が出現している

2017年10月22日日曜日

永住

永住
ブラジルに移り住んで六十年にもなる、生まれ故郷に住んだ
三倍がブラジルで暮らしている、高校三年で中退して
ブラジルに移住した、母と妹を道づれが未だに後悔の念
に胸がしめつけられる思いだ
母は実家を再建して暴風にも耐える瓦屋根に吹き替えて安心したまもなくだった、妹は中学生で義務教育も終えずに道ずれにした。
僕は三年にもなると、卒業後の職に難色を示していた。大学へは母の経済力では無理だった。アメリカ軍作業員になる事は望めなかった、学生の社会主義に参加したのがたたりだ。
丁度その、頃、父方の祖父がブラジルに呼び寄せたいとの手紙がきた
僕は飛びついた、ちょうど其の頃高校卒の七人がアルゼンチンへ
移住していたのを羨ましく思っていたのだ。
話はトントンに進み1951年の暮れには那覇空港より軍用機で羽田空港に到着した、冷たい空気が沖縄で味わったことない故郷へ戻ることの出来ない侘しい思いだった。
翌日はアメリカ領事館でアメリカ大陸通過の許可を経てサンフランシスコ向けの船に乗り込んだ、アメリカ大陸を飛行機で横断して
ニュヨ-クからブラジル行の飛行機で翌日朝サンパウロに着いた、あの頃ジェット機はなく、しかも軍用機の払い下げが民間航空に使われていて二日かけて大陸を横断した。
飛行場には親戚が出迎えて、祖父は沖縄語(クタンデネーニ)疲れなかったの意味でたずねた、祖国離れた沖縄人が故郷の言葉いつまでも
憶えているのに戸惑った。
翌日は夜行汽車に乗り込んで、パラナ州へ向かった、夜が明け次第
大陸の趣が牧場に現れ、牛や馬が草をもぎって
いる光景がアメリカ西部劇を思い浮かべた、途中で下車してパラナ行きのタクシーでパラナに向った、植民地に近づくとラッパを鳴らして着いたことを知らせた、祖父の家では親戚が集まり待っていた。一人一人が拍手を求めてきた。僕の家族の永住の歴史が始まったのだ
その夜は旅の疲れでぐっすり眠った
翌朝眼が醒めて裏庭では祖母が鶏にエサをやっていた、その数が三十派も越えていた、鶏は何処にも巣をつくり卵が籠一杯にかき集めていた、豚も三十頭位馬と一緒に牧場に放されていた
なんと食べ物が豊かな国なのだ、戦争で食糧不足で生き延びた僕たち家族には頼もしい思いだった
果物、バナナ、やマンガは観た事もなかった、祖父が日系新聞を取ったおかげでブラジル事情や日本の事情も知る事が出来た、突然ブラジル大統領が自殺したのを日伯新聞で詳しく知ることが出来た
その後,副大統領が左傾化して共産主義化する傾向を防ぐために
軍事行動を起こしたのも記憶をたどると永住の歴史が重なるのです。
祖父一家と暮らすにはあらゆる面で馴染めなかった、僕たち家族が民主化の影響で昔の風習はなくなっていて、ブラシルでは未だに戦前の風習が残り大事にブラジル化することなく守られていた、
事情会って、長男の孫である僕が別れて一家を構えることにした、
その事は永住の一歩と云えそうだ、まづ、なによりも欲しいのは土地だった、土地さえあれば、家も建てられるし、家畜も飼う事が出来る母は豚や鶏を世話することによって、故郷への思いが和らぐからだった、祖母は一部の土地を良い条件で譲った、ある時期にカンピナスの母方の親戚を頼りに移ろうとも思っていた矢先に思いとどまった、今思うと、殆どの移民が二度や三度の引っ越しを経験したのに、僕は永住して以来、同じ場所に住んでるのも永住に腰を据えたお陰だと想う。
家も新築して住みよい住み家になったのを機会に叔母の世話で嫁を世話することになる、叔母の隣の家の娘で中学卒業して間もなく、家事を手伝っていた、ご両親は世話好きで、戦後移民を引き取って、世話したのが多く、娘はいつでもお嫁にやると叔母に話していた
僕の嫁にやりたい素振りのようで叔母は、当たったのでした。
僕はそれでも、祈る思いで返事を待った、僕は経済的に多くの負債を抱えていたし、長男故に母と暮らす,重荷を抱えていたからなおさら半身諦めていた、叔母は良い返事を持って来た。
僕は有頂天になった。彼女は僕にとって高嶺の花だった。
永住して四年目に結婚した、翌年には長女が生まれて我が屋は家族
が増えた、その後も次女が生まれ、次々と四女まで生まれた
僕は母にもう子供を産まないと告げた、母は悲しげに涙を浮かべて
なんで姉妹と別れてブラジルに永住したか、子孫が絶えるなら日本でもよかったと訴えた、僕は呼び寄せてくれた祖父に対しても跡継ぎを生まねばと思った。八人目に男の子がうまれた、長男一人では心ぼそく、欲張ったらまた女が生れて我が屋は九人の子と十二人の大家族になった、一時期は土地を売り払ってスパーでも経営しようと思ったこともあった、大家族のゆえだった。でも土地にしがみついて、子達全部大学までやる事が出来たのは神の手助けか、子供たちが父に負担かけるのを惜しんだ故かと思っている
子達も大学卒業後良い職に就き、結婚しても自立で生活できて親たちの苦労は子達にはせずに暮らしている
金婚式は娘達が出し合って祝い、その後昨年六十年も祝い、体に不調をきたしていろいろの手術を体験している
療養中暇を持て余して僕はなんと幸せものだと思っている
永住とは祖国から持って来た種を耕して蒔き、その出来栄えを眺めるのが永住だと思っている。今の心情です

二千十七年十月十日     真一

2017年8月13日日曜日

不思議な国日本


今世界で最も注目を集めているのが日本のようだ、まるで学校の

優等生のようである、その一つが世界で最も安定している、第二次大戦後七十年間戦争に巻き込まれることなく、平和に国民は暮らしてきた、その間に幾多の災害に見舞われたけど、国民団結して復興してきた。現に大戦中に味わった忘れることの出来ない事も、今の

政治家は味わっていないのが殆どです、中でも教育者が経験した、敗戦の挫折や虚無感は作家によって表されている。たとえば、教育勅語の取り扱い、教育者は生徒たちに人間の情操の掟として、教えて来た、書かれた道筋に間違いは無くても、せんご憲法で廃止された事は、教育者にとって、未来を失った人間の挫折に陥れた、それでも戦後七十年平和に暮らした国民にとって、憲法に定めた、軍隊なく、戦争放棄した憲法は何処の国にもない不思議な国が日本なのです。戦争が人殺しでどの国にとっても犯罪である事に敵国軍を多く殺した軍人を英雄化した今までの教えに問題があるのは勿論で

自衛隊が軍隊ではないとの安保条約も問題である

日本国民が過去の歴史を顧みて、平和な七十年間の歴史は国民に最大の贈り物である、過去において、隣国を占領して、植民地化し領土を広げて、国民を移住させて、生活を維持しようとした戦前と比較して、戦後は移住した国民が帰国して狭い国土を農地改革して、優れた農産物を生産している、それ以外にもあらゆる海産物をある食品に変えて利用して、職場をもたらしている、また身近にある材料、竹細工や。木工細工など、伝統職業が祖先代引き継がれて、職場を与えている、日本の織物は有名で分業化して多くの人々に職をあたえている。このような職業は地方によって伝統化されて引き継がれている、日本の物づくりは家庭産業で親から子と引き継がれて。看板を守っているのも外国人の不思議の様です、特に鉄製品の刃物は世界の人が買い求めている商品のようだ、世界で最も治安が良く観光客が日本の不思議な国として目に映るようです。

国吉真一

2017年4月15日土曜日

随筆      療養生活

三か月間家を離れて大都市の娘の家で暮らすことになった
理由は健康診断の為だった、その間に従兄弟が見舞いに来て五冊の本を置いて行った、毎日が退屈だろうとの計らいと、彼は僕が本読むのが好きなこと知っていたからです。
五冊の本の中に三浦綾子の随筆集があった、早速手に取って読んだ僕の今の境遇に考えさせる事がたくさんあった。
僕は移民の中で、最も恵まれた者だと思っている、移住したパラナが土地の良く季候も作物に適して良く収穫できた、人間関係にも恵まれて良き妻に出会い、家族にも恵まれ、故郷へも四回も旅行して満ち足りた生活を送っていた。
最近便に血が混じって検査のためにクリチバの娘に身を寄せた。
そもそも地方から専門医者を求めてきた故だろう。病院には各専門の医者とあらゆる検査設備が整っていて、敏速に結果を知る事が出来る、腸の専門医によると、早速傷の所を取り除く為の手術をすべく、心臓の検査を受けたら、心臓を繋ぐ小血管に塞がった所をあ

り手術で広げてから、安全状態でしか,腸の手術は出来ないと、医者は説明した、先ず血液循環の薬を処方したら出血か多くなった、とりあえず,腸をラジオテラピアで治療することを勧めた、其の為に一か月をようした、毎日が一人で一日過ごすのにもてあましていたので、考えることが多くなった雨の降る日など今までの出会った人々を思いだして恋しかった、前に書いたように何も不足しない人生なのに寂しさがあった、満ち足りた人生とは言えなかった、その時に三浦綾子の随筆を読んで、彼女が幾つもの病に侵されても,神仰によって、夫と共に絶えず、神に感謝して祈る事に満たされた人生を送っていることを語っていた、僕自身結婚後洗礼を受けて、教会に通っていた次期があった、大人になってからの入信は疑問がのこるのです、大都市では新興宗教が大きな殿堂を築き貧しい人々からの献金により、反面病院では満足な手当ても受ず苦しむ人々を見ると矛盾した社会を思うのです。また崇教による争いもあまり深入り出来ない面があった。綾子女史があらゆる困難を神が与えた試練として、感謝と祈ることで乗り越えている事に感銘をうけたのです人間の心には侘しい時、淋しい時、悲しいとき、満たされない空間がある。その様なとき、神へ感謝して祈る事で救われる思いがした、、 国吉真一